天変地異とスピリチュアリズム

すでに数多くの天変地異が起きていますし、今も現在進行形で起き続けています。

そして、残念ながら、まだこれからもしばらく続いていくことになります。

残念ながらというのは、この天変地異が、なにゆえに起きているのかということを、

人類はまだ充分に理解できていないからです。

なぜ理解することができないのか?

それは、ある意味で、頭が良くなりすぎていて、それでいて、魂的には退化の道を歩んでいるからです。

昔の人は、天変地異が起きると、

「これは為政者の徳が足りない」

とか、

「国民(くにたみ)の意識に、考え方に、行動に、問題があったのではないか?」

と考えていました。

科学文明を謳歌している現代人から見るならば、

「それは未開人の発想であって、進化してきたわれわれはそういう稚拙な発想はしない」

と思うでしょうけども、

けれども、真実はどうであるかというと、

「未開」に至っているのは、われわれ現代人の方であって、

昔の人の素朴な考え方のほうが、真実をついているのです。

天変地異の原因としては、以前に、共業(ぐうごう)と不共業(ふぐうごう)について書いた記事でご説明しました。

*参考記事:「天変地異の原理 ー 共業と不共業を理解する

一言でいえば、天変地異は共業、すなわち、ある地域のあるいは全人類の集合意識に問題がある場合に、

その反作用として起きてくるものです。

特に、ここ200年ほどで台頭してきた科学万能論や唯物論(唯物的な進化論も含まれます)が大きな原因になっていて、

その過程で積み重ねてきた想念の集積が、一朝一夕ではすまないレベルまで溜まっているということですね。

個人の運命についても、その不幸の原因について十分な内省が行われていれば、運命を修正することも可能であり、次なる不幸を未然に食い止めることができます。

だけれども、それは、原因と結果の法則(縁起の理)を受け止めることが出来るということが、前提にあるわけです。

国家や地球の運命であっても、やはり同じであって、

ある特定の事象が繰り返し繰り返し起きてくるということは、それはすなわち、原因と結果の法則(縁起の理)を人類が受け止めていないということ、

それゆえに、内省が充分に行われていないということを意味しています。

ただ、

全人類と言っても、結局は、ひとりひとりの人間の集合体でありますので、

まずは、己れひとりが、すなわち、僕やあなたがその事実に、真実に気づいて修正をかけていくことが出発点になるわけです。

これだけの天変地異が起きていても、また起きつつあっても、肉体的人生観を持っているがゆえに、

多くの人々は、自分のちっぽけなプライドや自己実現に夢中になっています。

そして、死後、つまり肉体の死を迎えた後に、真実を知らされて、

「そういうことであるならば、神は言葉でもってきちんと教えてくれるべきであった」

「神や仏がいるのであれば、地上に生きているうちに、目に見える形で現れ、説明してくれないのは不公平ではないか」

とクレームを言う人が数多くいるわけです。

だけど、事実はどうであるかというと、

「人生の各所で、真理を知るチャンスがあった」というのが本当のところです。

よくよく思い返してみれば、聞いたことがあるはずなんです。

神や仏自身ではなくても、その代理人、すなわち、天使や天使候補生たちが声を嗄らして伝えている場面に一度ならず、遭遇しているはずなんです。

そのときに、自分ごととしてとらえることができず、ある場合は、批判したり嘲笑してみたり、

そして、そうした反応をとったことがあるということすら、忘れ去っているというのが、多くの現代人の姿であるわけです。

アセンションという言葉も最近はよく聞きますが、
*アセンション=次元上昇

それは星の運行だの、宇宙のナントカだの、外部のものが勝手にアセンションをしてくれるわけではなく、

地球人自身の自覚から始まっていくわけであって、

先に書いたように、その「地球人」というのも、結局は、僕ら一人ひとりの集まりでありますので、

まずは、「自らが自らをアセンションする」ということが出発点になるわけです。

このように、いつもいつも、「己れを整える」「自らの責任として受け止める」というところから始まっていくのがオーソドックス(正統派)な真理です。

なぜそれが真理であるかというと、それは何度も繰り返して申し上げているように、「縁起の理」こそが最高のイデアであり、実在であるからです。

蒔いた種は刈り取らねばならぬ

と聖書で説かれているように、原因と結果の法則は、「自らを治める」ということ、よく使われる言葉で言えば、「自己責任」に直結してきます。

「自由」というのは責任の裏打ちがあるから、許されていることであって、

責任を放棄したものは自由ではなく、それは「放銃(ほうじゅう)」と呼ばれるものになってしまうわけです。