天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)!!

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)とは

”天上天下唯我独尊”は、釈尊がマーヤ夫人の右脇から生まれた直後、7歩歩いて、宣言した言葉とされています。

まあ…、これが史実であるとは僕も考えていないのですけど。

右脇から生まれる必要もないし、生まれた直後に歩くのは難しかろうと思うのですが、どこの宗教にもありがちな「ありがたみ」を強調するために生まれた伝説ですね。

ただ、伝説というのは、伝説が生まれるなりのインパクトがあると思うのですよ。

たとえば、諸葛孔明については、「神の如く兵を用いる」ということで、三国志演義をベースにした吉川英治版『三国志』であれ、さらにそれをベースにした横山光輝先生(なぜか、「先生」と書きたくなる)のマンガ『三国志』(60巻)であれ、相当に誇張された伝説が書かれていますね。

そういったことの反省から、特に20世紀では、「人間・孔明」などの本が続々と書かれることになったわけですが、これが読んでみると、おしなべて詰まんないんです。

結局、「人間・孔明」であれ、「人間・釈迦」であれ、結局は、著者のレベルに、孔明や釈尊を引きずり下ろして書いたんだな、っていう詰まらなさであるということに気づきました。

たとえば、”伝説込み”の孔明のエネルギーが100あるとしましょう。

そのなかには、もちろん文字通り、作られた伝説もあるわけですが。

「延べ100のエネルギーを含んだ孔明像が作られた」ってことは、おそらく同時代の人は孔明に対し、やはり、「延べ100のエネルギー量を感じ取っていた」ということだと思うんですね。

ゆえに、「伝説だから」と簡単に切ってしまわないで、「そのような伝説が生まれるだけのエネルギー総量とはいかなるものか?」と検証していくと、やっぱり、100のエネルギー相当分の仕事量が発見できるものなんだなって思うんです。

話が釈尊から孔明に行ってしまいましたが、

この、”天上天下唯我独尊”の宣言にしても、それに相応することを実際に釈尊は述べていた。そして、同時代の弟子たちは大きなインパクトを受けていたということだと思うんです。

地上に在りながら、天上界の神々を指導する釈尊

釈尊が悟りを開いた、すなわち成道(じょうどう)ですね、その直後では、「この教えは難解で、おそらく説いても無駄であろう。それよりは、ひとり涅槃の境地にいることにしよう」とした釈尊に対して、梵天が「いやいや、そんなことをおっしゃらずに、どうぞ法をお説きください」と何度も懇願に参ります。

この、「いやいや、無理だ」「そんなことをおっしゃらずに!」の問答が、いわゆる、梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と言われるものです。

このイメッジで分かること。それは、神々より仏陀のほうが上位にあるという立場です。

仏陀釈尊は、のちに、法華経において、「久遠実成の仏陀(くおんじつじょうのぶっだ)」になっていきます。

久遠実成の仏陀とは何か。

それはすなわち、「人間として地上に生まれ、悟りを開いて仏陀になったと説法していたのは、実は方便であって、仏陀は悠久の昔から、天上世界において最大の権限を持つ存在である」という宣言です。

そしてそれは、釈尊が肉体的な死のあとに祭り上げられたわけではなくって、生前において、すでに久遠実成の仏陀の自覚を持っていたということであろうと思うんですね。

このような、「久遠実成の仏陀」思想は、キリスト教的な、絶対神に近い神認識であるかもしれません。

実際は、「久遠実成の仏陀」思想は、さらに先に進んでいくわけでありまして、そのことが、地球的価値観の樹立のキィポイントになると僕は考えているわけです。

*この件については、超重要なので、別記事でじっくり書いてみたいですが、以前、「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」記事の後半ですこし触れた「大日如来」の思想のことです

少し話が逸れましたが、ココで僕が言いたいことは以下の2点です。

  1. 仏陀は神々を指導する立場にある
  2. 仏陀が神々を指導する立場にあるのは、あの世(スピリチュアルワールド)においてだけではなく、この世(マテリアルワールド)においても、そうである

ということです。

神宮寺(じんぐうじ)に見る、神々の再編成・リストラクチャリング

上記のことは、日本の宗教史をチェックしていても感じることで。

おおよそ、8世紀の後半から、神宮寺(じんぐうじ)というものが、建設されていきました。

神宮寺というのは、ご存かと思いますが、神社の中に建てられた仏堂などのことを指します。

この、神宮寺が建てられていく経緯を政治史の絡みからチェックするのも面白そうですが、ココでは、別の観点から考えてみます。

たとえば、伊勢の国の多度(たど)山の神である多度大神は豊穣の神として信仰されてきたのだけれども、763年に以下のような託宣を下したと言われています。

我は多度の神なり。吾れ久劫(きゅうごう)を経て、重き罪業(ざいごう)をなし、神道の報いを受く。いま冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す。

*久劫(きゅうごう)=長い時間
*参考文献:『神仏習合』(義江彰夫著)

また、有名な石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の祭神(=応神天皇)は、同時に、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と呼ばれていましたね(明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動でいったん白紙になっています)。

多度大神の、「三宝に帰依したい」との表明であれ、八幡大菩薩の名称、つまり「菩薩」という名称であれ、これは、仏陀のもとに再編成・リストラして欲しいという神々からの自己申告です。
*この場合の、「菩薩」というのは、大乗仏教における、「仏になるための修行する人」のことなので。

これは、上述した、

  1. 仏陀は神々を指導する立場にある

に完全に一致しています。

このように、日本の神仏習合の流れをチェックしても、仏陀(久遠実成の仏陀)のもとに、神々が再編成・リストラされていく過程が見て取れます。

法華経的な、久遠実成の仏陀は、華厳経においては、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)として表現されています。
*奈良の大仏が、盧遮那仏です。大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ)とも言います。サンスクリット語では、「マハーヴァイローチャナ」。

盧遮那仏

法華経的な久遠実成の仏陀が一種、キリスト教的な絶対神に相当するのに対し、(なので、法華経教団は一神教的に排他的になりやすいんです)、毘盧遮那仏は、”われと神”が分離したものではなく、「個別的な”われ”をも含む一者」という認識にたちます。

つまり、一者の「1」とは、数列的(1,2,3…というような)な「1」ではなくて、「1」のなかに全ての数字を含む「1」というわけです。

分かりにくかったら、1個のお餅のかたまりを想像してください。

1個のお餅は、ちぎっていけば、多数のお餅になりますよね?

そして、また元にくっつければ、1個のお餅に戻ります。

つまり、「一のなかに多があり、多は再び一に還ることができる」という理論です。

この、”一即多多即一”の原理こそが、次代の、地球的価値観を創り上げる原理になってきます。

これは”予言”といってもいいですが、同時に、僕は死ぬまでこのことを1万回以上言い続けるつもりです。

なぜというに、

この”一即多多即一”の原理によって、世界中の宗教・思想・スピリチュアルが争わなくて済むようになるからです。

それはつまり、

単に、「一色」に統合されるだけではなく、多様性を認めつつの「一」になることができるからなんですね。

そういう意味で、上の「お餅のたとえ」は、お餅よりも、”多色の粘土のかたまり”を想像するといいですね。

つまり、一者のなかで、「この地域・この時代は”愛の教え”を活性化させよう」との意図がある時に、粘土からイエス色のものが、にょにょっと現れるイメージです。

僕ら、ひとりひとりも、この一者の内部にあります。

なぜなら、真理は全体であるからです。

真理が全体であり、それでいて、なぜ、その内部に個別的な存在があるのか…?

ココに宇宙創生の意図がありますが、話が拡がりすぎるので、また別の機会に。

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