四向四果(しこうしか)と解脱(げだつ)

四向四果

あの世、実在界の構造論については、今までは、天台宗の十界説を援用してご説明してきました。

しかし、実際は、釈尊の時代から、あの世の段階は説かれていたんです。

釈尊の時代では、阿羅漢(アラカン/サンスクリット語ではアルハット)が悟りたるもの=覚者と言われていて、阿羅漢が最高段階だったんです。

そういう意味では、釈尊自身も(少なくとも初期の段階では)阿羅漢だったのですね。

そして、阿羅漢に至るまでの段階、というのがやはり説かれていました。それが、タイトルに挙げた”四向四果(しこうしか)”というのものになります。具体的には、上から順番に書いてみますと、

  1. 阿羅漢果(あらかんか)…実力、阿羅漢

  2. 阿羅漢向(あらかんこう)…気分は、阿羅漢

  3. 不還果(ふげんか)・・・実力、解脱(生まれ変わってこなくてもいい)

  4. 不還向(ふげんこう)・・・気分は、解脱

  5. 一来果(いちらいか)・・・実力、もう一回生まれて修行すれば解脱

  6. 一来向(いちらいこう)・・・気分、もう一回生まれて修行すれば解脱

  7. 預流果(よるか)・・・実力、修行者

  8. 預流向(よるこう)・・・気分は、修行者

の8つの段階になります。向と果がおのおの4つあるので、計8段階となります。
*漢字が多くていやにならないでくださいね

それぞれの解説で、「実力〜、気分〜」となっていますが、普通の仏教書を読んでも、こういう解説ではないかもしれません。笑

まあ、分かりやすいかな、と。

要は、「果」「向」というのは、境地としての安定度の差ですね。

解説を読んでもらえれば分かるように、それぞれの段階は、「解脱(げだつ)できるかどうか」が関心の中心になっているのが分かります。

そこで、解脱(げだつ)とは何ぞや?というところが問題になってきますね。

釈尊の時代(当時のインドの共通認識)で言う解脱とは、簡単にいえば、「悟ったので、もう地上に生まれ変わる必要がなくなる」という意味でした。

これ、現代日本のような先進国に住んでいると、多くの方にとって、ちょっと実感として湧かないですよね。

「え?地上は楽しいので、また生まれてきたいんですけど・・・?」ってなるかもしれません。笑

釈尊当時のインドは政治経済の興隆期ではありましたが、やはり現代の先進国に比べればキツイ状況であって、「もう生まれてきたくない、輪廻から外れたいです!」というのが、多くの人のニーズ、ウオンツでした。

そのためには、悟りを得なければならず、悟りを得て悟りを説く人物=仏陀が出現するはず。という、一種の仏陀待望論があったんですね。

で、「われこそは覚者なり」と主張する人物が幾人かいて、「どれが本物なのよ?」という状態であったかと思います。

関係ないですが、あなたが釈尊あるいはイエスと同時代に生まれたとして、「この人は仏陀である」「この人は救世主である」と、たしかに認識する自信がありますかね?

数百年、数千年たって権威がたってから信仰するのは、ある意味、楽ですが、歴史的に積み重なった権威がないと信じられない、ということであれば、イエスと同時代に生まれたとしても、パリサイ人になってしまった可能性はありますね。

まあ、それはさておき。話しを解脱に戻しますと。

結局、修行とその結果である悟りの深まりの度合いで、解脱=生まれ変わってこなくても良くなったかどうか、という段階論があったわけです。

その段階論は、わりと「文字どおり」になっていまして、

預流(よる)で修行の流れに入り阿羅漢へのルートに乗ります

一来(いちらい)では、「なかなか修行が進んできたけど、もう1回生まれて修行すれば解脱できます」という段階になり、

そして、

不還(ふげん)になると、「この世を含めた人間的な欲望の世界(=欲界という)にはもう生まれてこない」という段階になり、

さらに、

阿羅漢(あらかん)では、「解脱して涅槃(ねはん)の境地を得て、この世はもとより、あの世でも人間的な属性をもった三界には生まれない」という目出度いゴールに至るわけです。
*三界=欲界・色界・無色界。
とりあえず、未だ人間的な属性が残っている世界、と仮押さえしておいてください。
*涅槃:一切の執着を離れた安らぎの境地、ととりあえず仮押さえしておいてください。

繰り返しますが、それぞれの段階で、「向」「果」とあるのは、実力、安定度の問題です。それで、「実力、」「気分、」と書き分けているわけです。

以上が、大まかな解説になりますが、じゃあ、四向四果は本当のところ、どうなのよ?ってことを、スピリチュアルな視点を入れて書いていきますね。

結論から言うと、

上記の分類は若干、無理があるかな、と思います。

というのも、菩薩でも如来(当然、阿羅漢はクリアしている)であっても地上に生まれてくるからです。

ただ、

生まれてくるにしても、生まれてくる目的、が違うんですね。

普通の人は、魂としての個人的な課題をクリアして、進化の切欠にしていく、という私的課題優先の生まれ変わりをします。

たとえば、嫁姑問題。

「うちのお義母さん、やだなー、憎らしいなー」ということで、喧嘩が絶えないとして。

そういうケースでは、いわば”カルマ返し”とでもいいますか、嫁と姑の立場を逆転させて、次回の人生で姑の側にたってみる、という経験をするんですね。

そこで悟るものがあれば、この課題はお仕舞い、ということになるんですけど。

たいていの場合、輪廻転生もカルマもまじめに信じていませんので、嫁になったり、姑になったり・・・を延々と、何千年も繰り返していたりします(嫁姑問題に限らず、夫婦問題、親子関係、友人関係、国家との関係、などなど、人間としての営みすべてですね)。

ぐるぐるぐるぐると同じ課題をえんえんと繰り返す輪廻、僕はこれを、洗濯機型輪廻転生、と呼んでいます。笑

真理知識を学ぶということは、神仏とは何か、人間とは何か、あの世とこの世の関係はどうなっているのか、輪廻転生の仕組みはどうなっているか、etc…. を知るということなんですね。

知ることによって初めて、洗濯機型の輪廻は勘弁!と思うようになるわけです。むしろ、自己愛が強ければ強いほど、そんな繰り返しはエネルギーの消耗以外の何ものでもない、と悟るからです。

こうした真理知識をもって、この世の個人的な課題をある程度クリアして、はじめて、「自分で主体的に緻密な計画をもって生まれてくる」という段階に入ります。

つまり、

個人的な課題解決はある程度卒業して(多少、課題は残りますけど)、むしろ、もっと積極的に、神仏の心をこの地上世界に実現させるための利他・奉仕の心であえて地上に生まれてくる存在、これが菩薩であり、天使なんです。

そういうことを踏まえて、

解脱を「輪廻転生からの枠組みからハズれる」という観点から捉えた段階論は実態としてどうかな?と思っているわけです。

僕が四向四果の段階論を使わずに、十界説を採用しているのは、そういう理由です。四向四果では、解脱の捉え方がスピリチュアル的観点から見て、不十分である、ということですね。

ゆえに、

解脱は、「迷いの輪廻転生から外れて、より主体的な輪廻転生になる」というふうに、まずは捉えればよろしいかと思います。

そのためには、

まずこうした仕組み知ること、真理知識をしっかり仕入れて、あなたの人生に当てはめて考え、行動してゆくこと、これがなにより第一歩となります。

解脱や涅槃(ねはん)については、また別の観点からも説明が必要と思いますが、とりあえず、今回のトピックに絞って書いてみました。

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