心塵脱落と身心脱落

身心脱落

ここしばらく瞑想系のテキストを書いていたりする関係で、他の方々はどうやって瞑想をやっているのかなー?って今更ながらに、Youtube などで調べ始めたんです。

基本、自己流でやってきましたので。笑

瞑想で検索していると、ヨガ以外では、禅宗系の瞑想動画が多いですね。

たとえば、コチラ(僕と利害関係はありません・笑)。

瞑想については、やっぱり動画があったほうが分かりやすいかなー、と思いつつ、僕が登場してもどうなのか、
この動画のように、スタイルが良くて美男美女だったらもっと説得力があるのに!と残念なのですが。笑

ところで、瞑想や座禅のハウ・ツーものを観たり読んだりしていると、足の位置はこう、とか、手の位置はこれこれで、これは◯◯印と呼ぶのだ、とか解説されています。

なるほどー!と今更ながらに感心してたりしますが、一方、僕自身の体験上、「うーん??」と若干、疑問があるものもありますね。

身も蓋もない例で言うと、上記の動画は道元禅師の系統の座禅なのですが、途中で、身心脱落(しんじんだつらく)をする、と解説されています。

えっ!?身体も心も落っことしちゃうの?と疑問を持たれたアナタ!僕も同じ疑問を持ちました。笑

まあ禅的に、「身体と心を忘れ、滅却(めっきゃく)するのだ」と言われると、「”滅却”なんて専門用語出されたら反論する気なくなります・・・」となりそうですね。

ところが近年になって、学会から、「身心脱落」は「心塵脱落」の聞き違えだったのではないか?との疑義が提出されています。(故・高崎直道教授説)

音は、どちらも、「しんじん」で同じですからね。

そして、釈迦オリジナル的には、瞑想・内省によって心の塵(ちり)を掃除する。そして、正しい見解を得る、というほうが王道なのは明らかです

ここらへんの経緯については、道元が中国へ留学した際に、如浄(にょじょう)という方が先生だったのですけど。

どうも、中国語の発音にまだ慣れていない道元が、心塵→身心 (どちらも、読みは「しんじん」)を聞き違えた疑いがある、ということなんです。

そして、如浄和尚に「シンジン脱落を悟りました!」と報告したところ、「うむ、おぬしは悟った!」という流れですね。

道元の鮮やかな勘違いであった、という身も蓋もない説です。笑

一方、曹洞宗系のサイトを検索していると、「いやいや、もとは勘違いであっても、道元禅師は、さらにハイレベルな境地を開拓されたのである」と解説していたりします。

では、どっちがハイレベルなのか?ということですが。

身心脱落が一種の「無我の境地」を説いていたものであったとしても、後世のひとは分からなくなってしまうんだなー、と上の動画を見ていて思いました。

座禅途中で、身体をふりふりして、「落として」いる場面がありましたが、これはもう本来の無我説とはまったく関係のない世界ですね。

こんな感じで、インド→中国→日本、と経由していく段階での、「鮮やかな勘違い」というのは結構あるものだなーって感じています

まあでも、そうであっても、中世のキリスト教のように、すぐ異端論争やら、戦争やら魔女裁判やら、にはならず、

滔々とながれるガンジス川のように、すべてを包含してゆく仏教のゆとり、というものを僕は大人の宗教だなあ、と思う次第です。

 

 

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