三法印瞑想でこころの安らぎを得る(涅槃寂静編)

涅槃寂静

この2つの記事の続きです。
参考記事:「三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸行無常編)」
参考記事:「三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸法無我編)

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは

涅槃(ねはん)というコトバは、これまた仏教で誤解されている用語のひとつです。

日常語で、あるいは現代の仏教でも、「涅槃に入った」というと、「亡くなった(死亡した)」と同じ意味で使われていたりしますね。

そのせいか、「釈尊が涅槃に入られた時、北を枕にしていたのだから、北を頭にして寝るのは不吉」とか。日本ではよくわからない戯論がまかり通っています。笑
*インドでは古来より、そのような風習はありません。

涅槃とは、サンスクリット語では、”ニルヴァーナ”といって(バンド名でありましたね・笑)、これは、「(肉体的人生観を)吹き消した状態」のことを指します
*パーリ語では、”ニッパーナ”。

なので、肉体が死んだかどうかは直接関係ないんですね。

悟った人が肉体の死を迎えることを「般涅槃(はつねはん)」と言ったりはしますが、それはあくまで、数ある涅槃のなかの、ひとつの状態を指すに過ぎません。

また、仏教(つまり、王道スピリチュアル)の基本的な考え方としては、この世の心境とあの世の心境はLINKしていると考えます。

ゆえに、僕は、「この世の成功とあの世の成功をLINKさせる」ということを主張しているんですが、これって、特に目新しいことを言っているわけじゃあないんですね。

むしろ、この世に肉体を持ちながらにして、涅槃(=煩悩の火を吹き消して安らぎの状態に入る)の心境になれるほうが偉大なんです。

それは、肉体を持っていると、どうしても、肉体感覚に引っ張られて、本来の”霊的我(れいてきわれ”を忘れがちであるからです。

そういうわけで、涅槃とはやはり霊的、スピリチュアルな用語なんです。

「寂静(じゃくじょう」は、文字通り、静かな状態。つまり、涅槃に入って、霊的我を自覚した大いなる安らぎの境地を指しています。

まとめますと、涅槃寂静とは、「肉体我に基づく迷いから離れて、霊的我を取り戻す。この霊的我を取り戻した安らぎの境地」のことを言っているわけです。

涅槃寂静の瞑想

順序としては、諸行無常の瞑想→諸法無我の瞑想→涅槃寂静の瞑想、という順になります。

諸行無常・諸法無我をもう一度、ふり返ってみましょう。

  • 諸行無常とは、時間軸を基本において、「一切のものは過ぎ去っていく。変転・変化していく。ゆえに、このような変転変化するものに執われてはならない」という思想でした。
  • 諸法無我は、空間軸を基本において、「いかなるものであっても、それ自体では存在できない。関係性のなかに、たまたま”有る”にあるように見えているにすぎない。したがって、”我(われ)なるものも、この世においては仮の存在、仮性(けしょう)であり、無我なのだ」という思想でした。

このように、2つの瞑想において、「時間において、無常。空間において、無我」という認識に至ることになります。これ自体が大きなおおきな悟りです。

そして、僕らひとりひとりは、無常なる時間軸と、無限なる空間軸が交差する一点に存在していることになります。

涅槃寂静

 

 

 

 

 

涅槃寂静こそが、”今ココ”なのです。そしてその”今ココ”も時々刻々と移動・変化しているわけです。

霊的我(れいてきわれ)としての涅槃寂静

さて、諸行無常と諸法無我においては、「肉体我としての執着を絶ち、霊的我に目覚める」ということが主眼になります。

そして、この2つの瞑想については、それぞれの記事に書いたように、わりあいに”この世の事象”を振り返るだけでもできてしまうんですね。

涅槃寂静においては、上記の悟りをベースにして、さらに、”霊的我”を実感し、腑に落としていくことが主眼になります。”霊的我”により重点を置くわけです。

すなわち、「時間において、無常。空間において、無我」なる自分、肉体我を去った自分はいかなる存在であるのか。

霊的我とは何か。

それは、物質や肉体への執着を絶ちつつ、さらにもう一歩踏み込んで、逆に、「この世の意義を積極的に問いただす認識」に至るわけです。

本来の故郷は霊的世界、スピリチュアルワールドの存在である。しかし、それでもこの物質界・現象界に生かされていることには、大きな意味があるのではないか。そこに大いなる神仕組みが働いているのではないか

この現象世界に生まれ、育ち、生き抜く過程で、珠玉の智慧を獲得していくことができる。そして、自分発で世界へ愛の実践をなすことができる。そして、そのことがまた、さらなる上位の霊的我を覚醒することにつながっていくのではないか

このようなことを瞑想で観じていきます。

大いなる安らぎの境地から、より積極的な智慧と愛の世界へ

そして、その神仕組みのなかに生かされている我を観じていきます。

イメージ的には、神仏の神経細胞のひとつとしての自分、をイメージすると、実感しやすいです。

親鳥の翼のなかにいる雛のような気持ち、というイメージでもいいですね。

幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。ーマタイ伝「山上の垂訓」冒頭

このイエスの言葉は、日本語としてそのまま読めば、けっこう解釈が難しいですよね。
*ゆえにいろいろな意訳が試みられいますが、やはり「心の貧しき者」との訳が言語に近いらしいです。

僕としては、「心の貧しき者→我を張っていない者→無我なる者」と解釈しています。
肉体我を離れて霊的我の心境に至った者は、無我なるゆえに、大いなる神の一部として生かされている喜び、安らぎを得ることができるのだ、と。

そう、僕たち人間も、動植物も、草花も、微生物も、大いなる神仏・大宇宙の経綸の一部として存在し、互いに生かし合っているという気づきです。

そして、その”事実”のなかで、「自も他も本来一体である」という悟りに至ります。

「自分vs他の世界」という認識でいるからこそ、さみしさや不安、憎しみが生まれてきます。

ところが、神仏のなかの一部としての存在であるということでは、自分も他者もその構成要素の一部であるということになります。

これは、物質という別け隔てがある世界観からは獲得できない悟りです。霊的な、つまり、エネルギーの次元で物事を観じられるからこそ得られる悟りなんですね。

繰り返しますが、地上に肉体を持ちながらにして、この認識を持てることは、それだけで偉大なことです。

さらに、認識するだけではなく、「どれだけ実感として腑に落としているか」が霊格を決めることになります。

以前、菩薩界(天使界)に近づくと、平等性智(びょうどうしょうち)が高まるというお話をしたことがありますね。
参考記事:「天使(菩薩)の条件

平等性智とは、一切の存在に仏性(神性)を感じとることが出きる智慧の段階です。そして、この智慧を”般若(はんにゃ)の智慧”というわけです。

悟りが高まり、菩薩界へ近づいていくと、かならずそのような認識に切り替わっていきます。天界的な、いわば切磋琢磨→差別知(さべつち)から、平等性智へ近づいていきます。
*天界については、「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」参照

初心者向けの瞑想といいながら、相当に高度なところまでお話しちゃいましたが、ひとりでも多くの方が、三法印瞑想の実践で、この悟りを得られることを願います。

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