最澄の”本覚思想、悉皆成仏思想”はミステイクである

三乗

因縁果報について

いきなり、天台宗(日本の)そのものを敵に回していますが。笑

でもハッキリと言っておきますが、最澄の思想は間違っております

以下、漢字がたくさん出てきますので、結論だけ知りたい方は、本記事の下から4行だけチェックしてみてください。

最澄のどこが間違っているかというと、簡単に言えば、「誰でも成仏できる」というところです。これが、悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)という意味です。

もちろん、可能性としては、「誰でも成仏はできる」んですが、これはあくまで”可能性”なんです。

最澄のラディカルなところは、”可能性”ではなくて、”今すでに成仏している”、としてしまったところにあるんですね。

仏法の根本は、”縁起の理法”、すなわち、「原因と結果の法則」である、というのは当サイトで何度か述べています。

また、覇道スピリチュアルか王道スピリチュアルかを見分けるのも、縁起の理法→心の自治のところをチェックすれば良い、と何度か語っています。
参考記事:「新月や満月で運がいいとかわるいとか願い事とか考えないほうが良い理由

縁起を見るものは法を見る、法を見るものは仏を見る

という仏典のコトバがありますが、

これはまさに、ゴールデンルール中のゴールデンルールです。

そして、縁起の理法をさらに分解していく考え方に、因縁果報という思想があります。

つまり、単純モデルとしての、原因・結果の法則はもちろん正しいのですが、

その途次において、

 因→縁→果→報

の4つのプロセスを経るということなんです。

たとえば、花が咲くというプロセスを見てみましょう。

  1. 因…種を蒔く
  2. 縁…肥料をあげる、日光に当てる
  3. 果…花が咲く
  4. 報…見たひとが花を美しいと思う

という順序になっているわけです。

つまり、因と果の間に縁が介在するということになりますね。

人間の場合、この”縁”にあたるのが、個人の努力であったり、他者との協力関係であったり、いろいろですが、いずれにしても、何らかのカタチで自助努力が要請されることになります。

縁起の理法は、自己責任の原則に落ち着く、とも述べたことがありますが、結局、因と縁についてはどうしても自助努力の部分が必要になってくるということです。

なので、

  1. 因…仏性がある
  2. 果…仏になれる

というのはストレートにはいかずに、

  1. 因…仏性がある
  2. 縁…魂を磨く修行を重ねる
  3. 果…仏に(いつか)なれる
  4. 報…他者への救済ともなれる

というのが、正解です。

要は。最澄の思想は、この”縁”の部分をすっ飛ばしてしまっているということです。

悉有仏性(しつうぶっしょう)と悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)

山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)などと言いますが、要は、生きとし生けるもの全てに、仏の性質が宿っているという考え方です。

これは真理ですね。

ただ、

悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)は、生きとし生けるものはみな成仏ができる、ということで、ココが微妙なことろなんですよね…。

悉皆成仏は、「可能性」としては、その通りですよ。

仏の性質を持っているので、それを修業によって磨きだしていければ、段階を踏んで仏に近づいていくことができる。気の遠くなるような年月を経て、いつかは、あなたも仏になることができるでしょう。

でも、これは、あくまで可能性なんです。

ここのところを、「仏性が宿っているから、すなわち、もうすでに仏なのだ」とラディカルに行き過ぎると問題だということです。

これを認めると、殺人をしようが何をしようが、「すでに仏です」になってしまいますよね。

現に、比叡山からは多くの堕落僧を出しましたし、鎌倉仏教の開祖たちは、比叡山を見限って、当時の新宗教を起こしていったという流れがあります。

始覚思想と本覚思想

上で述べた、悉有仏性と悉皆成仏と似たような論点です。

始覚(しがく)というのは、仏性あるということから始めて、修業によって、段階的に覚り(さとり)を磨いていくという考え方ですね。

 (仏性があるという事実から)めて→→→段階を踏んで→→→ 

ということで、始覚です。

対して、

本覚(ほんがく)というのは、元来は、悉有仏性と同じような考え方だったのですが、最澄はこれをラディカルに解釈して、

  (もと)からっている

という、本覚に持っていってしまいました。ココが誤りです。

これを、天台本覚思想といいますが、僕がよく紹介している中国オリジナルの天台宗とは別物になってしまっています。
*ただし、天台宗の経典である法華経にはそう誤解される余地は十分にあります

元から悟っているなら、何をしようが、「すでに仏なんでー♪」ってことで済んでしまいますので、堕落も悪も許容する理論になってしまいますね。

言われてみれば、子供でも分かることです。

三一権実諍論(さんいつごんじつのそうろん)

そういうわけで、当時も、最澄の思想に対して反論がありました。

法相宗(ほっそうしゅう)の徳一(とくいつ)というお坊さんが、「そりゃ変でしょ?」って論争をしかけたわけです。

三一の、”三”と”一”は以下の意味です。

  • 三…三乗(さんじょう)=声聞(しょうもん)→縁覚(えんがく)→仏、という順番ですよ。
  • 一…一乗(いちじょう)=最初から仏ですよ。

*声聞・縁覚については、「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」参照

”乗”は、仏へ至る乗り物、ということですね。

  • 権(ごん)…方便
  • 実(じつ)…真理

ということです。

一言でいえば、三乗と一乗のどちらが、真実でどちらが方便か、という論争です。

で、やはり、これはどちらかといえば、徳一のほうが正しいです(名前が地味ですけどね)。

「どちらかといえば」と前提をつけたのは、法相宗の思想にも一部、「うーん…?」と思えるところがあり、また、そもそもが、上述のように、法華経自体に誤解のもとになる思想があるからなんですが、、

ココに立ち入ると話題が広がりすぎるので、別の機会に述べます。

最澄のほうは、「どちらかといえば」というレベルではなくて、はっきりと思想上の誤りです。

いろいろ、難しそうなことを書きましたが、

押さえて置かなければいけないのは次の2点。です。

  • 仏性は万象万物にある(山川草木悉有仏性)
  • けれども、仏性を磨きだし、仏陀へと近づいていくのには、修行による段階論がある

ということですね。

 

 

 

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