無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

無常・苦・無我

比丘たちよ、色(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。「雑阿含経1-9」
*色=物質・肉体

仏教の中心的思想でありながら、仏教思想に流れている毒水があります。それが無我説に関わってくるのですが、今回はそれを指摘してみます。

一行目、色(しき)は無常である…云々と続きますが、色は仏教用語で「物質、物体、肉体」の意です。

上記の詩句のあとに、

  • 受(じゅ)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 想(そう)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 行(ぎょう)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 識(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々

と、冒頭の一語だけ変えて、あとは同じ文章の繰り返しになります。

赤文字のところをご説明しますと、

  • 色・・・物体、肉体
  • 受・・・感受作用
  • 想・・・表象作用
  • 行・・・意思作用
  • 識・・・統覚作用

ということになります。この色受想行識の5つを仏教では五蘊(ごうん)と言います。

五蘊とは人間を構成している要素を5つに分解したものです。

まず認識の対象である”色”(物体、肉体)があり、それを感受する器官が”受”ですね。感受するとそれに対しての何らかのイメージ(表象作用)=”想”が起きます。

そして、それに対して何らかの意志作用である”行”が生起して、最後にこれらの知覚を統合する頭脳的(知的)な働きである”識”があると。こういう分類をしています。

有名な「般若心経」の冒頭で、

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄…

とありますが、これは「観自在菩薩が深遠なる般若の智慧を行じていると、五蘊は空であることが分かり、一切の苦厄から逃れらるのである」といった意です。

さて、冒頭の文に戻って、

「色は無常である」というのは、物体・肉体というものは無常、常ならざるものである、変転変化の中にある、ということですね。

そして、「無常なるものは苦である」と続きます。これは詩句ですので、多少解釈が必要です。

無常を感じる主体はわれわれ人間ですね。ところが人間は、ともすれば、無常なるものを恒常なるものとして認識しがちです。

たとえば、美貌も移り変わっていきますが、老いを押しとどめたいと思ってもやはり限界はあります。

また、名声や財産なども無常です。死ぬ間際まで保持できたとしても、あの世には持っていくことはできません。

このように、この世の全ては無常であるのに、それを押しとどめたい、我が物にしたいという思いが執着になり、その執着が苦しみの元になっている、というのが仏教の根本的な考え方です。

「無常なるものは」という言葉は、後に、有名な「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という言葉に結実します。また「苦である」という認識は、「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉に結実します。

さて、次に、「苦なるものは無我である」の解釈に行きます。

ここの解釈が、仏教を学ぶことによって自由自在の境地を得るか、単なる唯物論に堕していくかの分かれ道になっています。

多くの仏教書(インターネットで検索しても)では、無我は「我がない」ということだから、自己という主体がない、ゆえに仏教は無霊魂説である、という方向へ行っています。

これこそが、冒頭で申し上げた、「仏教の中に流れている毒水」的解釈になっています。

ただ、こういう方向に行くのも分からないでもない、というところがありまして。

インドにおいて、仏教以前からあったバラモン教では、宇宙の根本原理であるブラフマンと人間に備わっている自己=アートマンは本来同一・同質のものである、という思想があったのです。

これを梵我一如(ぼんがいちにょ)と言います。

そうした伝統的なバラモンの教えに対するアンチテーゼとして、仏教は無我を打ち出してきた、という側面があるのですね。

そうすると、仏教は無我、つまり、アートマンを否定したのだから、自己というものはない。自己がなければ霊魂もない、ゆえに仏教は無霊魂説である、という解釈に行ってしまったのですね。

しかし、これでは仏教は単なるこの世的な哲学で、宗教ではなくなってしまいます。そもそも、仏典にはあの世を前提とした思想・経典が山のように有るわけです。

ジャータカ物語(釈迦の過去生を描いた物語)もそうですし、在家信者相手に説いた基本説法である、「施論・戒論・生天論」は、「善いことをして悪いことをしなければ天国へ生まれることができます」という思想ですね。
参考記事:布施の種類(三施、無財の七施)

霊魂がなければ、そもそもあの世もなく、転生輪廻もなくなってしまいますから、在家信者相手に説いた基本説法である「施論・戒論・生天論」は大ウソだということになってしまいます。

他には、釈尊は二番弟子である目連(もくれん)に老母(地獄へ堕ちていた)を供養する方法を教えたりしています(これがお盆の起源です)。これなども霊魂、あの世がなければ成り立たない話ですね。

無我はどう解釈すればいいのか?

  1. 本体論としての無我
  2. 作用論としての無我

に分けて考えるべきだと思います。

結論から言うと、

「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である」の「無我」は、2.作用論としての無我、として解釈すべきです。

つまり、自己はある(本体論)のだけれども、その自己がどのように世の中の事象を観察していく(作用論)か。苦しみのなかにあるのは、本来のあなたではない(無我)。

この世の生存=肉体我という観点から見ると苦しみになっていくのである。そうではなくて、霊的我でもって世の中を観察していくこと。

これが冒頭引用文の末尾の「正しき智慧をもって観るがよい」という本当の意味だと思います。

実際は、この詩句を離れて無我説の展開を追っていくと、「諸法無我(しょほうむが)」の思想へと結実してゆくことになります。

「法」というのはインドの言葉ではダルマと呼びますが、意味は大きく2種類ありまして、①教え ②存在
の二通りです。

諸法無我というときの「法」は後者ですね、「存在」という意味になります。つまり、諸法無我=諸々の存在は無我なるものである、という思想です。

こちらの無我は、「全ての存在はそれ自体では存在できない、相依存して初めて成り立つものである。ゆえに、自性(じしょう・自ずからなる性質)なるものは存在せず、無我である」という意味に発展していっております。

こちらの無我は、大乗仏教で言う「空」という思想として展開していっております。

というよりも、釈尊入滅後、小乗仏教のなかに無我=無霊魂説がはびこってきたがために、天上界のほうから「空」という概念での修正運動が起きてきた、というのがスピリチュアル的にみた感想です。

ちなみに、「諸行無常」「諸法無我」に「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」を加えて、三法印(さんぽういん)と呼びます
*「一切皆苦」もしくは「一切皆空」を加えて四法印と呼ぶこともあります。

五蘊の仮和合(けわごう)について

少し、冒頭に戻って「五蘊」について付け加えておきます。

上記で述べたような無我=無霊魂説のひとつの物言いとして、「人間は五蘊の仮和合(けわごう)である」といった言い方がされます。

つまり、人間は、色受想行識の5つの要素が仮に合わさった存在である、という思想ですね。

これも執着を断つという意味で使われるのなら良いんですが、仮和合だから、死んだら分解されて何もかも無くなる、という無霊魂説でよく引用されますので、この点も注意が必要かと思います。

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