キリスト教グノーシス主義の考察

グノーシス主義

ひとくちに「グノーシス主義」と言っても、どこからどこまでがグノーシス主義なのか、幅広いのですが、今回はあくまでもキリスト教グノーシス主義に絞って考察してみます。

時代背景としては、ローマ五賢帝の時代。18世紀イギリスの歴史家ギボンが言うところの「人類史上もっとも幸福な時代」を中心に展開されたキリスト教思想運動です。

前回の記事、「キリスト教の世界宗教化とギリシャ・ローマ系の神々の関わり」でも少し触れましたね。

グノーシス」という言葉自体は、「知識」「認識」を意味するギリシャ語に由来します。

グノーシス主義については、1945年にエジプトで「ナグ・ハマディ写本」(「ナグ・ハマディ文書」)という大部のグノーシス文献が発見され、研究が活発になった経緯があります。

ナグ・ハマディ写本

ナグ・ハマディ写本『トマスによる福音書』

 

なお、本論の考察にあたっては下記の書籍を手がかりにしております。
参考書籍:『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』 (講談社選書メチエ:筒井賢治 著)

グノーシス主義

それでは、グノーシスの定義を手がかりにして考察を進めていきます。

グノーシスの定義(1966年:於メッシーナ「グノーシス主義の起源に関する国際学会」による提言の要約)

  1. 反宇宙的二元論
  2. 人間の内部に「神的花火」「本来的自己」が存在するという確信
  3. 人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在

 

1. 反宇宙的二元論

反宇宙的二元論」とは、イエスが「わが父、主」と呼んだ至高神と、ユダヤ教(旧約聖書)で言う創造神(世界を創った神)は別物である、という考え方です。

新約聖書と旧約聖書を素直に読み比べてみると、やはり違和感があります。ひとくちに旧約聖書と言っても、内容も年代も幅広いので、すべてに疑問があるというわけではないですが、随所に出てくる「裁きの神」ですね。あるいは、「人類を試す神」、こうした有り体に言えば偏狭な神が、イエスの信じた「愛の神」と同じものと考えるには、ずいぶんと違和感があります。

このモチーフは、グノーシス主義に関わらず、疑問に思う人は多いでしょう。かのアウグスティヌスも『告白』において、若き頃の放縦な生活とマニ教への傾倒を懺悔していますが、そもそもマニ教へ傾倒した動機が「旧約の神を論理的に信じることができない」というところにあったのです。

アウグスティヌスはその後、師アンブロシウスに出会い、旧約聖書はアレゴリー(寓話)的解釈をすればよい、というところに落ち着き、ようやくキリスト教に帰依するようになります。

ただ、やはり私は、旧約聖書に登場する「裁きの神」とイエスが信じた「愛の神」は別物である、と解釈したほうがスッキリすると思いますね。

新宗教を立てる際には、どうしても従来の権威を借りなければ、なかなか民衆が付いて来ないという側面はどうしてもあります。それがキリスト教の場合は、旧約の予言であったり、アブラハム以来のイエスの系図を書いたり、というところに現れているのではないかと思われます。

これは仏教においても同様で、釈尊も初期の頃は、「私の教えは私のオリジナルではなく、過去の仏陀たちが説いていた真理を発見したものなのだ」という趣旨のことを述べています。これが過去七仏の思想になっていくわけですね。つまり、釈尊においても初期には伝統の権威を借りていたということです。

ただし、釈尊は40数年にわたる教団運営の実績に支えられ、次第に伝統の権威から離れていくことになります。法華経にいう「久遠実成の仏陀(くおんじつじょうのぶっだ)」、つまり修行して覚りを開いたのではなく、自らの本当の姿は根本仏と一体なのだ、という思想に変わっていきます。これはキリスト教グノーシスで言う至高神に相当するかもしれません。

法華経がどれだけ釈尊の直説を反映しているかについては一定の疑問がありますが、大乗仏教のなかで超越的・絶対的な仏陀・如来が登場してきた背景には、ある程度、釈尊自身の意思が反映されていたと見做すほうが自然だと思いますね。

2.  人間の内部に「神的花火」「本来的自己」が存在するという確信

人間やこの世については「劣悪な創造神」の産物であるが、人間の中には至高神に繋がる「神的花火」「本来的自己」がある。これを認識(グノーシス)することが大事である、という思想です。

若干、現世否定が行き過ぎている感がないでもないですが、こうした「神的花火」「本来的自己」といった要素は、仏教で言う「仏性」とほぼ同一の思想ですね。

正当キリスト教義では、「父と子と精霊」と人間はまったく別物であり、人間は原罪を背負ったひたすら救済されるべき存在という解釈であるのに対し、人間観においてかなり力強い思想です。

3. 人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在

グノーシス主義者のひとりであるプトレマイオスの神話では、至高神プロパトールを最上位とする「プレーローマ」なる上位世界が存在しているが、紆余曲折あって、劣悪な「裁きの神」によって、この世と人間が生み出された、とされます。

人間には、「物質的部分」「心魂的部分」「霊的部分」の3つがあり、このうちの霊的部分(2, の論点であった「神的花火」「本来的自己」)が「プレーローマ」から派遣されたキリストの啓示によって救済される、という救済論に落ち着くことになります。

神話については、グノーシス主義を正当化させる「後付け」感が否めないですが(笑)、人間のなかの霊的部分(「プレーローマ」を故郷とする)がキリストの啓示によって思い起こされるということ。そして人間にとっての救済は、自らの霊的部分の本質を認識(グノーシス)することが必須条件になる、との教説は、正当キリスト教会の教義よりも、ずっと積極的な思想です。

また、ナグ・ハマディ文書の『フィリポ福音書』によると、「復活」の概念も正当キリスト教義よりもずっと精神化されています。

「人はまず死に、それから甦るのだ、という人は間違っている。人は、まず生きているうちに復活を受けなければ、死んだときに何も受けないだろう」ー『フィリポ福音書』より     

この思想は、「この世での心境がすなわちあの世の行き先を決めるのだ」という仏教思想とも通じるところがありますね。

さて、上記の3つの論点に加えて注目しておきたいのが、グノーシス主義の一派、カルポクラテース派が採用していた輪廻転生論です。

この一派は、「この世においてすべてを体験しておかなければ、魂は再び転生を強いられる」と説いていたとのこと。仏教の輪廻転生論よりもむしろラディカルなくらいですね。

それにしても、こうした輪廻転生論が正当キリスト教義に取り入れられていれば、キリスト教史、ひいては世界史もずいぶん違ったものになったであろうと残念です。

最後に、グノーシス=知識、認識とは何を内容としているのか。キリスト教グノーシス主義者のひとりであるテオドトスの言葉を引用しておきます。すぐれて哲学的な問いです。

我々は誰だったのか、我々は何になったのか。我々はどこにいたのか、我々はどこに投げ込まれたのか。我々はどこに向かうのか、我々はどこから開放されるのか。誕生とは何か、再生とは何か。

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