「ありのまま」「あるがまま」は難易度が高い

ありのまま

「ありのままでいい」「あるがままでいい」という言葉は、自己実現本でもネットのBLOGでもよく見かける言葉です。

間違っているとは思っていません。

が。これ、結構、難易度が高いと思うんですよね。口当たりが良い言葉のわりに。笑

また、それ以前に、何をもって「ありのまま」「あるがまま」としているのか、よく分からないところがあります。

この、「よく分からない」という時点で、すでに僕にとっては難易度が高いんですけどね。笑

でもまあ、いくつか整理した上で、考えてみましょう。

<自分が>「ありのまま」「あるがまま」の場合

これは下記の3通りあるかなあと思います。順番に見ていきますね。

①肉体感覚に基づいた「ありのまま」「あるがまま」の場合

これは王道スピリチュアル的に言えば、論外、とでもいうべきパターンです。

いや、この世の刑法にすら抵触する方向にも行ってしまいますね。

要は、自我我欲の肯定ということになりますんで、流れとしては、どこまでも欲望に忠実でよい、ということになります。

つまり、人を殺しても「ありのまま」「あるがまま」ということになりますのでね。

自由というよりも、単なる、放銃(ほうじゅう)を認めるという態度ということになるでしょう。

なので、まったく論外。

②スピリチュアルで言う「真我」「神性」「仏性」を指す場合

これは①とは真逆で、いわば、「真なる我」に従っていきましょうということになります。

もちろん、全然、間違いじゃないですし、むしろ、どこまでも魂を伸ばしていきましょう!ということで、正解中の正解ですわね。

でもね…。

これを言うなら、あえて、「ありのまま」「あるがまま」との物言いをする意味がなくなって、普通に「修行せい!」と同じになってしまいますね。笑

つまり、「そもそも論」として、前提が崩れてしまいます。

③上記の①と②の両方を指しつつ、「現状を受け入れましょう」という意味の場合

これが一番、議論の余地があるところです。

つまり、

  • ①の肉体我に基いて出た思いや行い→至らない自分
  • ②の神性が発揮された自分→なかなか良くやっている自分

の両者を認めて、<今ココ>の自分がいる地点を見極めましょう、という内容になるかと思います。

このケースでは、『「ありのまま」「あるがまま」の自分を受け入れましょう』という物言いが多くなると思いますが、これはじつに正解なのではないかと思います。

つまり、現状認識をしっかりと受け入れることによって、

  • 背伸びしている自分を捨てて
  • まんざらでもない自分も発見して

心の安定が得られますし、かつ、現状認識がフラットになるので、人生目標に対する適切な対策が打てるんですね。

この「ありのまま」「あるがまま」は、仏教の中道論にも一致すると思うところがありまして、きわめて重要なので、別記事で書いてみますね。

ただそれにしても、多くの方が<ふわっと自然体>というイメージでいるほど、この認識は簡単ではないです。

というのも、「背伸びしている自分を捨て」「まんざらでもない自分を発見する」というのは、やはり、自己を客観視する理性の力が必要だし、相応の考える時間を確保しなければ、なかなかこの認識には至らないと思うんです。

それが、「自分でやるのは難しい」ということであれば、信頼できる心理学のカウンセラーか、王道スピリチュアルのカウンセラーに相談するのが一番だと思います。

老荘思想的に「ありのまま」「あるがまま」の場合

このパターンもわりと多いんですよね。

老荘思想については、僕も真理だと思っています。しかも、ある意味で最高度の真理だと。

でも…、

老荘思想的な「ありのまま」「あるがまま」というのは、「遥か上級のスピリットから見れば、そう見える」という前提が入るような気がします。

たとえば、悪とか苦しみとかは、生きていれば当然、出くわしますね。

しかし、これも、遥かなる神仏の目から見ると、遙かなる時間軸から見ると、いま現在、悪や苦しみと見えているものであっても、善なるものやがて転化していくことになります。

「すべては仏の手のひらのうちにある」というのは、実ははこのことを言っているわけです。

そうすると、「じたばたあくせくしなくても、永遠とも思える時間軸で見れば、やがては全ては善なるものへ転化していくのだから、焦ったり苦しんだりする必要はない」、ゆえに、「ありのまま」「あるがまま」でいいと。簡単に言えば、これが老荘思想なんです。

でもね…

この視点ってやっぱり、遥かはるか上級の神霊だからこそ思える心境なんですよ。普通の人ではまず、ここまでの開き直りはできません。したがって、やはり難易度が高いんです。いや、高すぎる。笑

また、老荘思想的を人生論全般に当てはめてしまうと、ミクロ的に悩んだり苦しんだりしている人に対して、「放っておけばよい、なぜなら、いつかは彼らの経験も善に転化していくんだから」ということになり、天使の仕事がなくなってしまう。天使がいっせいに失業する状況になりますね。笑

まあ半分冗談ですが、「ありのまま」「あるがまま」でいいのなら、天使の側の修行論の余地がなくなり、それは結果として、大宇宙の根本のエネルギー体が意図をもって、階層世界(次元構造)を創造したそもそもの意味を無化してしまうことになります。

そういうわけで、老荘思想的な「ありのまま」「あるがまま」というのは、「永遠の視点から見ると、こういう見方があるんだな」という、自分自身の認識レベルでの<余裕>として使う分には良いんですが、やはりトータル論では使えないな、というのが僕の感想です。

まあそういうわけで、当サイトは今までまったく老荘思想を紹介することはしていません。

ただ、こういう、「永遠の視点から見た善悪論」というのは、仏教の理論からも導き出せるものなので、これまたあえて老荘思想で紹介する必要はないかな、と思っていたんですね。

まとめ

どう転んでも、「ありのまま」「あるがまま」は難しいということです。

また、口当たりが良いコトバであるだけに、言っている方も言われた方も「なんとなく納得してしまう」というやっかいな面もあります。

そして、その「なんとなく」が思考の余地を奪ってしまい、智慧の獲得という機会を逃すことにも繋がるのではないかと思います。少なくとも、一時的なカンフル剤以上のものにはなりませんね。

 

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