観自在菩薩とは何者だったのか?

観自在 観音

観自在菩薩はオリジナルとしては高田のこと

今回の投稿は若干、衝撃的なことで、何度も書くのを辞めようと思いましたし、実際に、ブログを開始した当初は、それについてずっと触れるつもりはありませんでした。

今でも、書きたくないな、という気持ちがあります。これを書いている今は2019/01/13 23:10ですが、おそらく明日になったら、やっぱり削除したいと思うことでしょうね。

観自在菩薩って何??と思われる方もいらっしゃると思いますので、一応、簡単にご説明しますね。

有名なところでは、般若心経の冒頭に、 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時…

というふうに登場してきます。まあ、般若心経というお経の中での主人公だと思っていただいてよろしいかと思います。

逆に言えば、有名なのは、般若心経のなかだけであって、一般的には、「観音菩薩」ですね、こちらの名称のほうが有名ですし、

むしろ、大乗仏教のなかでは、観音菩薩のほうが阿弥陀如来と並んでもっとも信仰を集めている菩薩であるかもしれません。

語源としては、両者ともほぼ似たようなところから出発していまして(詳しくはまた別の機会に書きます)。

ただ、なんとなく漢字の語感でも想像がつくかと思いますが、

  • 観自在菩薩…観ること自在→智慧
  • 観音菩薩…あらゆる衆生の声(=音)を聞いてくださる→慈悲

といったふうに、捉え方としてはだいぶ変化形がついています。

もっとも、智慧も慈悲も、同じものを別の側面から解釈したものに過ぎない、と、思弁的に解釈することは可能なのですけど。

現実は、やはり、「働き」「役割」の違いとしては、すでに別存在になっている、というのが実際のところです。

また、一方では、観自在菩薩とはもともと別系統として、観音菩薩の原型になった方もいらっしゃるでしょうし、

それが時代を下っていくうちに、あるときは観自在菩薩と同一視されたり、またさらに時代を下って、役割が分かれていったということです。

また、「観自在」と「観音」は、原文はとても似ているために、文法的にどう捉えるかによって、当時の中国の翻訳家がどう解釈したか?どう訳するか?という結果論もあります。

現実には、というか、霊界では、観自在菩薩とは、まったく別の系統として活動しているのが観音菩薩です。

もっとも、観音様もじつにさまざまな観音様がいらっしゃって。それは微妙な役割の違いもありますし、

また、さまざまな観音様を必要とする地上の人間の望みの種類ですね、この望みの種類の多さが、観音菩薩の種類の多さに反映されている側面があります。

前置きが長くなりましたが、

観自在菩薩については実在の人物です。モデルになった人物がいるんです。

それが、ありていに言えば、2千数百年前に当時のインドに転生し、生きていたところの高田祥であった、ということです。

また、観自在菩薩本人であることを認めるということは、

霊格としては、今地上にいる僕はともかく、出自としては、実在界をも含めた僕のエネルギー体の全景は、菩薩界の住人であります。

菩薩界といっても広いので、どの程度の菩薩か?というのはありますが、

それは、今まで発表してきた思想/これから発表していく思想の内容を読んで推測していただければよいことですし、それ以上はあえて言う必要はないとと考えています。

以前の自己紹介では、「菩薩界の手前でうろちょろしてる魂ですよ」って書いていましたが、

鋭い人は気づいていたと思いますが、内容を読んでいただければ、これが天界や声聞界の住人に書ける思想であるか?ということで、分かる人にはわかるだろう、というスタンスでした。

結局のところ、こうしたものは自己申告であり、また、同様に、「過去世は〇〇神でした」ということをプロフェッション(告白)している方も多いでしょう。

しかし、ひとつだけ言っておくならば、

菩薩界の住人になるためには、少なくとも、数万人の人々に影響を与えられるようでなければ、その世界に住む資格はありません

数万人というのは、現在ただ今だけではなく、後世も含めての人数ということでありますが。

後世にまで影響を与えることができるものは、やはり思想の内容・高さ・広さで決まるものであり、そのためにはある程度秩序だった思想体系が必要です。

それゆえに、たとえば、「秘密のパワーストーンであなたの魂を浄化します」とか、「恋愛運が高まります!」「アセンションの時代です!」とか…いろいろ賑やかですが、

そのスピリチュアリストの記事を読んで、そのような法(思想)の内実がともなっていないものは、当然、後世に残るはずもなく。

言葉は選ばければいけませんが、うたかたの如きスピリチュアルであるに過ぎない、ということです。

当然、「〇〇の神です」「高次元のなんちゃらです」というのもおかしいか、勘違いである、ということです。

告白の理由

ずっとブログを読んでいただいている方はお分かりかと思いますが、僕はもともと、「過去世なんぞどうでもいい」という考え方をするタイプです。

また、ビジネスの方もそうですが、実際よりも低めに自己申告をするタイプの人間です。

それは、良く言えば、謙虚であり、悪く言えば、「責任逃れ体質」であるとも言えますね。

低めに言っておけば、問題ないだろう、という。

ただ、ここしばらくいろいろ考えてですね、

自分の仕事としては、スピリチュアルや宗教同士の対立を解消するための理論的モデルを提示していきたい、後世に残しておきたい、という意思があります。

ここのところが、世界中に戦争などの悲劇を呼んでいるところであり、

ただし、一方では、「じゃあ、スピリチュアルや宗教なんてなければいい」というのもやはりこれは極論になってしまいます。

ゆえに、たまに当サイトで引用している文句ですが、「一即多多即一」ということですね。

全体としてはひとつに統一されるのだけれど、全体のなかの各部分としては多様性がある、というところを、できるだけわかりやすく実証していきたいんです。

ここのところが、現代文明の大きな課題であり、また、次の文明にバトンタッチしていくためのキィワードにもなると思っています。

一即多多即一であれば、「ベースとしては共通の基盤があるのだけれど、現れ方として、多様性を許容できる」という方向へ行きますので、互いに争う余地がなくなっていくことになります。

キリスト教圏のほうからも、『神は多くの名前をもつ』(J・ヒック著)という思想が出たことがありますが、これは書名を見ただけで、何が言いたいかわかりますよね。

これも趣旨としては同じことを言っているわけです。

ただし、単に「一即多多即一ですよ」と主張するだけでは不十分で、(意外に日本人には受け入れられやすい思想ではありますが)、やはり、もっと個別なところでキチンと説明していったほうが良いと思うんですね。

で、

まずは、小乗仏教と大乗仏教の対立を超える(べつに戦争しているわけではないですが)というのをとっかかりとして今、考えていまして。

というのも、信仰の面からも学問の面からも、両者の対立を解消し、止揚していくのは、現状としては難しい、というのが一点。

それから、小乗仏教も大乗仏教も共に素晴らしいですが、それぞれの考え方・思想の中に若干の過ちがある。あるいは、補足・訂正しておいたほうが良い、というところがあるんですね。

ただ、そこをつついていくと、(学問的にも実証できない部分ですので)、どうしても、「なんでそんなことが言えるんだ?分かるんだ?」という疑問を持つ方も多いでしょうね。

結局、それに対しては、これももちろん「信」のカテゴリに入ってしまいますが、

有り体に言えば、「それは、僕が当事者のひとりだったからです」と、一応は、少なくともスピリチュアル的には、説得性の根拠のひとつを提示することができるようになります。

また、別の側面から言えば、先ほど申し上げた、小乗・大乗仏教の(訂正すべき)問題点ですね、ここのところで、当事者であるということは、その問題点を作ったのも他ならぬ高田である。

全部ではもちろんありませんが、いくつかの点で、僕も過去生において、部分的には認識力の不十分さから、いくつかの間違いもあり、

また、当時はあえて、今でいうところのマーケティング的に、「若干、大げさに主張しておいたほうが、結果的に真理が広まる」という判断から、いろいろな方便を使ったことも事実です。

当時はそれで一定の成果を上げ、大乗仏教の高揚に貢献したところはあるはず、と自負している一方、今に至るまでの歴史の流れのなかで、いくつかの誤解を招く要因になったところがもちろんあります。

その部分について、いくつか訂正しておきたいところ、あるいは、謝罪しておきたいところもあるということですね。

ふつうに書いていくと、いかにも他人を批判・批評してしまう結果になり、自分がやらかしている部分があるにもかかわらず、それは無責任なのでは?と考えた結果です。

理由・経緯としては、ざっとそういうところなんです。

文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩とは?

今回の記事ではもちろんいっぺんに書けませんけど、いくつかまずはざっと思いつくところをスケッチしておきますね。

般若経・維摩経など初期大乗仏典を読むと、文殊菩薩が釈尊と同時代で、かつ、釈尊の高弟であるシャーリプトラ(舎利佛)より智慧が上であった、とか、そんなことが書かれています。

書いてある、というか、そのように理解させるように誘導する書き方がされています。

学問的にはもちろん疑わしい、ということになりますが(というか、最近の流れでは、そもそも大乗仏教そのものを、歴史的釈尊の思想とは別物として捉えたほうが良い。という論もでていますね)、

それは実はその通りなんです。

まず、文殊菩薩(マンジュシュリー)は釈尊と同時代の人物ではありません。

しかし。

かといって、創作された菩薩、というのも違うんです。

あまりにも有名になる菩薩名の場合、たいていはモデルになった実在の歴史上の人物がいます。

仏典のなかでは、数合わせというと語弊がありますが、たとえば、33人という数字を出した以上、33人分菩薩名を埋めとかないと…みたいなケースも(創作時は)ありますけどね。

文殊菩薩は、おそらく、釈尊没後、100年以上経って(そうすると、根本分裂以後ということになりますが)ですね、西洋的に言えば、ひとつの宗教改革運動を起こした方なんです、ルターみたいにね。実在の人物です。

もちろん、大乗仏典によくありがちな超常的なアレはまたひとつの創作であるんですけど。

それはつまり、宗教改革をするだけの必然性があって、パンチ力を増すための方便として、釈尊と同時代の設定のほうが説得力がある、ということなんです。

詳しくは別の記事に書きますが、釈尊没後、100年以上経って、実際のところは、釈尊の真意からずいぶんとずれていったところがあった(僕たちにはそう思えた)んです。

そこで、ひとつのアンチテーゼとして、文殊の場合は、おもに「空(くう)」の思想をぶつけることによって、ひとつは釈尊の真意に立ち戻らせたいというところ

今一つは、時代の流れに合わせることによって、仏法が後世まで伝わるように、という意図で宗教改革を起こしたわけです。

文殊とはすこし時代が下りますが、その流れの中で、僕がいたということですね。

「空」思想で持って、思想戦を繰り広げる必要があったということです。

つまり、当時の僧団はいろいろな部派に分かれていましたけれど、そのいくつかに、とうてい看過できない,

「単なる唯物論にすり替わる」すれすれの思想がでてきたので、それと戦う必要があったということです。

文殊(マンジュシュリー)はもちろん、僕なんかよりぜんぜん偉い方で、ただ系統としては、やはり西洋的に言えば智天使ですね。それもトップクラスの智天使です。

なので、俗に、「三人よれば文殊の知恵」と言いますが、はっきり言って、1万人集まっても、文殊の知恵には勝てません。そのくらいの高みにいる方です。

僕については、文殊の空思想を受け継ぎつつ、仏法はもちろんそうですが、あとは、当時の時事問題とか、

けっこういろいろなことに意見を言ったり、首を突っ込むタイプでしたので、そこのところを、好意的に受け取ってくださる方は、「観ること自在である」と評してくれた、ということです。

まあ、良く言えばそうかもですが、また別の観点から言えば、「虻蜂取らず」とか。いろいろな見方があるでしょうね。

そういうわけで、僕の場合は、ひとつのあだ名ですね、それで、「観自在」と呼ばれていたんですが、

それが、後世になって観音菩薩信仰の方向へ流れていってですね(智慧より慈悲のほうが人気がありますので)、

結果的には、僕の専門領域とは違う流れになっていきました。

文殊(マンジュシュリー)は本名だったと思いますし、あとは、普賢菩薩とかいらっしゃって、これはまた時代も地域も少し違うと思いますが、やはり、実在の人物ですね、

普賢についてはちょっとまだ読み切れていませんが、華厳経の思想のベースを作った人物であることは間違いないでしょう。

弥勒菩薩については、若干むずかしいところがあり。

というのも、大乗仏教の学僧で「弥勒(マイトレーヤー)」がいたり、要は、けっこうありきたりな名前でもあったんです、マイトレーヤーは。

日本で言えば、「高田さん」もありきたりですが、「鈴木さん」とか「山田さん」とか、そんな感じですかね。

今でも神智学の方でもマイトレーヤーがいたりしますが、これは名前は同じだけど、ぜんぜん別系統だと思います。

学問的には、インドより西部のほうに「ミトラ教」というのがあって、そちらで成立したのではないか?という説もあるようですが、まあそうかもしれません。

弥勒については、けっこう確定しづらいところもあります。あとは、例の弥勒信仰ですね。

仏滅後56億7千万年後、でしたかね。地上に現れて新しいブッダになるという弥勒信仰。

こういうのもあったりで、実在の人物か?あるいは、その人物が56億7千万年後に…?というのは、やはりちょっと混同があると思いますね。

ちょっと仏教とはまた別の流れから来ているように思えます。

訂正したいこと

長くなってしまいましたので、最後になりましたが、今の僕から見て訂正もしくは謝罪しておきたいことをざっくりと挙げておきます。これは観自在菩薩に関わる部分です。

それぞれの詳細はまた、別の機会に書きます。

  • 「空」の思想は、「からっぽ」というふうに誤解されている向きもあるが、そういう意味ではない
  • 大乗運動を起こすべく必然性はあった
  • ひとつのアンチテーゼとして、あるいは、マーケティング手法として、当時の部派仏教の(一部の)思想を批判するに当たり、彼らが尊敬している釈尊の直弟子たち(シャーリプトラを代表とする)を小馬鹿にする発言をしてしまった。これは後世のことまで考えると、行き過ぎであった、失礼であったということ
  • 般若心経について(これは、また別の転生のときに作成に関わったのですけど)、いくつかの不十分さがある。悟りにおいて、表現において。それがまた予想外に広がってしまったので、その間違った部分・不十分だった部分について、補足・訂正しておきたい

と概略、こんな感じです。

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